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櫻井龍子さん

自身で撮った写真をバックに

(東京・千代田区の日本カメラ財団理事長室で)

取材日:2021年4月
日本労働ペンクラブ
​  インタビュー
​  【第1回】

ジェンダーを考える

最高裁判所判事、日本労働ペンクラブ会員)

 世界経済フォーラムが発表した2021年の日本のジェンダーギャップ指数は、156か国中120位。政治、行政、司法など各分野の指導的地位に女性が占める割合の低さが目立つ。女性活躍、女性の管理職登用が政策に掲げられても実現への道筋は見えてこない。その原因は何か、その解決策はあるのか。日本労働ペンクラブ会員で、旧労働省の女性局長、女性3人目の最高裁判事を歴任し、働く女性の先輩でもある櫻井龍子さんが語った。   

(聞き手 日本労働ペンクラブ幹事・保高睦美)

 労働省への道を切り拓く

About

――どのような子供時代でしたか。

 1947年、福岡県大牟田市の生まれで、私は5人兄弟の4番目。父親は小学校の校長で、母親は専業主婦。男性が前面に出て、女は三歩下がって歩くという土地柄でしたが、それが普通の風景でしたから、それに疑問を持つということは、恥ずかしながら、小さい頃はありませんでした。

 学校では、級長は男性、女性は副級長と決まっていたけれど、私は、成績では全然負けてなかったから、小学校、中学校、高校、大学も含め、女性だから差別されたとか、悔しい思いをしたことは、今思い出しても、思い出せないくらい。

――九州大学法学部に進まれましたが、当初から官僚を目指していたのですか。

 将来、何らかの形で仕事をしようとは考えていました。医者になりたかったんですけど、解剖は無理だなと思ってやめました、怖い話を聞くと貧血で倒れたりして、体があまり強くなかったので。法学部を選んだのは、つぶしがきくし、いろんな職業の選択肢があるだろうと思ったから。非常に単純なことだったんです。

――いざ、就職活動。選択肢は沢山ありましたか。

 それが、まったくなかった。ジャーナリストになりたかったんですが、新聞社の女性求人がない。民間企業もない。残された道は司法試験を受けて弁護士になるか、公務員になるかという二つだけでした。

 公務員試験は、当時の上級職に上位で合格し、勇んで上京し、人事院に相談に行きました。ところが、当時、女性を採用するのは、労働省と、時々、厚生省、文部省くらい。厚生省、文部省では「今年は女性を採用する予定はありません」と見事に断られて。それで労働省に行ったら、やっと労働省だけ採用の道が開けたというわけです。

Portfolio
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仕事の割り振りに男女の格差

――労働省には何人くらい採用されたのですか。

 10人くらいでした。その中で女性は1人だけ。

――労働省はコンスタントに女性を採用していたようですね。

 労働省には、当時、「婦人少年局」という女性の地位向上を所管する局があって、将来、女性を婦人少年局の局長、課長などの幹部にするために採用しなければならないという事情があったようです。

――女性は全員、婦人少年局に配属されていたのですか。

 当時、森山真弓さん(女性初の内閣官房長官)が婦人少年局の課長、その次に赤松良子さん(元文部大臣)、高橋久子さん(女性初の最高裁判事)がいましたが、この3人の世代は、最初は婦人少年局の仕事だけだったようですね。それを、森山さんたちが他局の仕事もしたいとアピールして、省としても、将来、婦人少年局の幹部になるとしても、労働行政全般を経験しないとバランスの取れた判断ができるようにならないと考えたみたい。私が入省したころ、やっと女性も他の局の仕事ができる時代になっていました。

 それで、私の最初の配属は官房の総務課。その後、労働基準局などを経験して、婦人局(婦人少年局から改称)の仕事をしたのは課長になった時が初めてでした。

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――労働省では、女性同士のつながりは強かったのですか。

 強かったですね。とにかく少数派でしたから。女性官僚として労働省に採用された第1号が森山さんで、右大臣左大臣のような形で赤松さんと高橋さんがいて、最初の歓迎会の時から「あなた、霞が関で女性が偉くなろうと思ったら、男の2倍、3倍働かなきゃダメなの。労働省であってもそうなのよ」ってピシッと言われて。私は、「ははぁ。それくらいは覚悟しています」と。

 「あけぼの会」という、省庁横断的な女性の会もあって、年に何回か集まって情報交換やネットワーク作りをしていました。労働省の中でも「労働省あけぼの会」と称して、歓迎会や昇進祝いの会をしたり、子育て中の人は、保育園やベビーシッターの見つけ方などの情報を教えたりしていました。同期では女性はポツンと一人でしたが、期を超えた縦の関係は非常に強かったですね。 

――均等法施行後、総合職の女性が出てくると、女性が職場のお茶出しをするべきかというお茶くみ問題が結構真剣に語られていましたが、労働省ではどうでしたか。

 1年目はやりましたよ。何か当然期待されているという感じだったから。

――男女で仕事の割り振りなどに格差を感じることはありましたか。

 女性も、婦人少年局以外にも配置されるようになっていましたけど、将来、事務次官、局長を育てるための男性の配置の仕方とは明らかに違っていました。

 入省後3年目から本格的に配置が行われるわけですが、そこから急に男女差が出ました。男性は、重要法案の作成とか国会の根回しに関与して経験を積むような部署ですが、女性は、ただ他の局を経験させるというくらいの意識だということが表れていました。“配置する”というより、部局に“引き受けさせる”という感じでしたね。しかも、仕事は省内であまり関心がもたれていなかった国際関係の仕事とか、“雑用”と思われていた新しい問題が多かった。           

 でも面白いことに、これが良かった。自分でどんどん政策を作って、予算を取って、労働組合や日経連を巻き込んで実行していく。結果も出る。自信もつく。お陰でたくましく育ったと思います。

企業の抵抗が大きかった育児休業法制定

――婦人福祉課長として、育児休業法(平成3年5月成立、平成4年4月1日施行)の制定を担当されました。

 育児休業法ができたのは、女性の国会議員のお陰なんです。

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(日本カメラ財団理事長室で。左は保高睦美)

 平成元年7月の参議院選挙で、社会党の土井たか子委員長が「マドンナ旋風」を巻き起こし、女性当選者が倍増し、与野党の議席数が逆転しました。

 折しも、平成2年は議会制度100周年で、議員立法で育児休業法を作りたいと、野党の女性議員を中心に、野党法案としてまとめ、自民党も加わったのですが、意見の隔たりが大きくてまとまらない。そこで、労働省が経営者と労働組合の意見を調整して、内閣提出法案として国会に提出することになり、その担当をしました。

――育児休業法制化には企業側の抵抗が相当大きかったと聞いています。

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 企業側は絶対反対だった。育児休業制度なんて、日本の企業経営では無理だと。昭和61年に男女雇用機会均等法が施行されて、企業としてはしょうがなしに、総合職を作って、本当にやる気がある女性だけを集めて何とか働かしてやっているのに、育児で一年も休んでいる女性は使いものにならないということでしょう。少子化も、合計特殊出産率1.57ショック(平成元年度)とはいわれていたけれど、今ほど深刻ではなかったから必要性がわかってもらえなかった。

――育児休業制度は男性も取得ができる内容ですが、これについての反応はどうでしたか。

 一歩譲って、法制化はいいとしても女性だけだ。日本では、出産、子育ては女の仕事。何で男性にも認めなくちゃならないんだと、これまた大反対でした。

――どのように説得したのですか。

 「日本の育児休業法制化は、他の先進国にくらべ、10年、20年遅れです。今さら女性だけの育児休業制度では、国際的に笑いものになってしまいます」と説得しました。

 やっと法制化はOKしてもらったんですが、経営者の心の中では、制度を作っても、どうせ男性は取らないと思っていたかもしれませんね。

――労働組合の反応はどうでしたか。

 正直言えば、女性だけの育児休業で十分という幹部が多かったですね。本当にびっくりしました。

――経済界も労働組合も、幹部はほぼ男性だけだったということが関係しますか。

 そうですね。やはり、育った環境で、男性が育児休業を取ることは考えられないということでしょうね。世代によっても違うと感じました。当時の連合の事務局の若手の間では、男性が取得するのも当然という雰囲気だったと思いますが、幹部は年齢の高い人が多かったですから。

――今は、政府が男性の取得を奨励しています。

 本当に時代が変わったなと思います。ただ、それが男女平等ではなく、少子化対策だという点に、物足りなさがありますが、同じ結果がでるのなら良いかとも思います。

 最高裁判事に

           

――労働省退職後は、情報公開審査会の委員をされました。

 2001年4月、国の情報公開法が施行されるとともに、内閣府に設置された情報公開審査会が発足しました。行政機関に対する情報公開請求の不開示決定に対する不服申し立てを審査する機関です。発足当時は3部会(現在は5部会)で、各部会に委員は3人づつ。部会長(常勤)は裁判官出身者、検察官出身者、行政官出身者があたり、1人は女性をということで、ちょうど女性局長を最後に労働省を退職していた私が任命され、3年間務めました。

 それまで、霞が関の役人は、「よらしむべし、知らしむべからず」で情報はなるべく国民の目に触れないようにというスタンスだったと思います。情報公開法は、それを180度転換して、行政関係の情報は基本的に国民のものであり、個人情報とか、外交、防衛など公開すると国の安全が害される情報など、法が列記した情報以外、基本的に全部公開しなければならないとしたわけです。情報公開審査会は、行政機関が公開できないとした情報が、法が列記した不開示情報に当たるかを審査します。

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 私が部会長をした第3部会は、行政法の大家で当時は東北大学教授だった藤田宙靖氏(2002年、最高裁判事就任)、情報公開法制定にも携わった弁護士の秋山幹男氏が所属していました。原発、外交関係、官房機密費の問題など全省庁にわたる問題を、お二人とガンガン議論する中で、民主主義とか、行政機関の在り方とか徹底的に勉強しました。労働省の官僚のままでいたら、今のような考え方は多分できなかったでしょうね。

――その経験もあって、最高裁判事に白羽の矢がたったのですね。就任要請の連絡はどういう風にくるのですか。

 私の場合は、官邸からの電話でした。九州大学で集中講義をしていまして、その最中に官房副長官から直接。

 当時、私は、大阪大学と九州大学、早稲田大学の大学院でも教えていました。労働や行政関係で世の中に役立つような発信ができたらいいなと思って、日本労働ペンクラブに入会もしていました。

 最高裁の裁判官の仕事もよく知らなかったし、楽しそうなイメージもなかったので、「うーん」と考えていると、女性でただ1人の最高裁判事だった横尾和子さんが急にお辞めになるということで、後任は、行政官出身者で女性を探している。他に適任者がいないと言われまして。それじゃあ、半日だけ時間をくださいと言って電話を切りました。夫とも相談し、お引き受けすると返事をしたのです。

 

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――2008年の就任当時の最高裁は、15人中女性判事は1人だけ。行ってみた最高裁はどんなところでしたか。

 ものすごく権威があるところで、女性を1人入れてあげるっていう感じで、強いプレッシャーを感じました。

 労働省でも、ずっと徒手空拳で頑張って来たので、最高裁でも淡々と自然体でやっていくしかないと。本当に大変でしたけど、石の上にも3年。3年たったら慣れました。

 女性判事が3人に

――2010年には岡部喜代子、2013年には鬼丸かおる両裁判官が加わりました。女性が3人になりましたが、気持ちの上で変化がありましたか。

 それはまったく変わりましたね。

 最初のうち、15人で行う裁判官会議は大変でした。

裁判官室前。法服で (2016 年)

 裁判官会議は週に一度、裁判所の人事や規則制定などを協議するのですが、これが15人の丸テーブルに座るんですよ。長官が議長で、その中でポツンと一人という感じが一番困りました。

 経理とか人事の担当局長の説明でわからないことがあると、すぐ聞くのね、私は。さらに説明を受けてもわからないとまた聞く。そうすると、皆がジーッと冷たい目線で見るから、それ以上聞けなくなってしまう。でも岡部さんが加わった後は、私が果敢に質問すると、「私もわかりません」って賛同してくれて楽になりました。

 

――男性は賛同してくれないのですか。

 男性ってね、わからないのにわからないと言うと恥だとか、会議を長引かせちゃいけないとか、へんに忖度したり遠慮したりして、わかったような顔をしてるんです。会議が終わってから「あれ、僕もおかしいと思ってたんだ。櫻井さんが聞いてくれてよかった。」って。じゃぁ、どうして聞かないのかしら。そういうこと何回もありました。

 

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――15人で行う大法廷事件の審議はどうでしたか。

 5人で行う小法廷での事件審理は、女性1人でも大丈夫だったのですが、大法廷事件の審議は15人で、丸テーブルで行います。

 そうそうたる経歴の男性が14人並んでいる中で、ポツンと一人女性がいて、何か言う場面を想像してみてください。清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟です。話しているうちに声が震えることもありました。

 そういうところで、女性関係の事案、例えば夫婦別姓、再婚禁止期間、非嫡出子の相続権の事件などで、男性だと気が付かない、男性だと考えないような視点の意見を述べることは、ポツンと私一人だったらとても言えなかったんじゃないかと思います。

 一人の意見では迫力がないですから。女性の視点で意見を持つ人が他にもいて「今の櫻井さんの意見、私もそう思います」と援護してくれると、それはやっぱり違いますね。 

小法廷合議室で

 夫婦別姓問題に直面 

――行政官時代は「藤井」、最高裁判事としては「櫻井」と使用する姓が変わりました。夫婦別姓の問題はご自身も直面した問題でした。

 夫婦別性訴訟では、完璧に自分の経験を踏まえて意見を出しました。

 私は旧姓の「藤井龍子」で仕事上の実績も作り、友人関係も築いてきました。

それが、裁判所では、戸籍上の名前でなくてはならない[1]と、「櫻井龍子」に替えさせられました。生まれてこの方「藤井」としか呼ばれていなかったのに、何で今さら「櫻井」よ、という思いでした。

 判決書の最後に署名押印が必要だったので、内定して、まずやったことは、ハンコ屋さんに飛んで行ってハンコを作ること。「櫻井」のハンコは小さな認印くらいしかなかったですから。それから、署名は筆でというので、「櫻井龍子」と書く練習を一生懸命しました。「藤井」だったらどんな崩し字でも書けるのに。

 挙句の果てには、ある評論家に「櫻井龍子なんて、何の実績もない、どこの馬の骨かわからない女を裁判官にして」と批判されて、本当に頭にきました。

 ものすごい被害だった。日本では、姓が一番大事なんですよ。姓は名とあいまって個人識別の機能があります。だから、姓を変えざるを得ないということはどれだけの精神的苦痛と利益侵害をもたらすか、身をもって知りました。

 

[1] 判決書など裁判関係文書は「作成権限を明確にする」との理由で、旧姓使用がみとめられていなかったが、櫻井さんが退官後の2017年9月1日から使用できるようになった。現在の宮崎裕子、岡村和美・両最高裁判事は旧姓を使用している。 

――夫婦別姓訴訟判決[2]の多数意見は、氏を改めることによるアイデンティの喪失感、従前から形成されてきた個人識別特定機能の阻害、個人の信用、評価等に影響が及ぶ等の不利益が生ずることは否定できず、女性がこれらの不利益を受ける場合が多い状況が生じているものと推認できるとしながらも、結局、夫婦同氏を求める民法750条は、憲法13条、14条1項、24条のいずれにも違反しないと判示しましたが、櫻井さんは、鬼丸裁判官と共に、岡部裁判官の意見に同調する形で、憲法24条に違反するとの意見を出されていますね。

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裁判官室で執務中 (2012年)

 民法750条は間接差別[3]に該当する可能性が高いと思いました。同条は、文言上は性別に基づく法的な差別的取り扱いを定めているわけではなく、形式的にみれば不平等ではありません。しかし、96%を超える女性が夫の姓を称している現実から見ると、やはり、男性が「主」で、女性が「従」という、性別役割分担意識の再生産を助長している。それも間接差別に含まれるのだという女子差別撤廃条約の考え方を15人集まった合議の中でずい分主張したんですけど、男性判事の多くはわからなかったようです。

 この夫婦別姓訴訟判決は2015年。夫婦別姓について、まだ社会で議論が十分煮詰まっていなかったこともあると思います。多数意見は合憲でしたが、女性3人が違憲だとの意見を出したことがインパクトになって、国会議員の議論も動き始めました。一定の役割は果たせたと思います。

[2] 平成27年12月16日最高裁大法廷判決 https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf

[3}外見上は中立的な規定、基準又は慣行が、女性に不利益をもたらす結果となる場合をいう。男女雇用機会均等法7条参照    

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 女性の意識改革も大事

――日本のジェンダー問題ですが、管理職になりたくないという女性も多く、女性の意識改革も必要と言われています。

 全くその通りです。経営者や男性側の頭の切り替えは本当に必要ですが、女性の側も役割分担意識、管理職は男性、女性はサブで働くという意識を引きずっている人達が非常に多いですね。

 かくいう私も、自分の中に役割分担意識があることを非常に強く感じたことがありまして、最高裁を退官後、九州大学の東京同窓会の会長をしていますが、就任の打診があったとき、とっさに浮かんだのは「同窓会の会長は男性の仕事でしょ」という考え。思わず口にしそうになって、ハッとしました。

 「級長は男性、副級長は女性」というのが、それが当たり前みたいに育ってきたから、私自身の中にも性別役割分担意識が残っていたのですね。

―女性は非正規労働者が多いために男女の賃金格差が大きいという問題があります。             

 給料の高い企業の管理職、専門的職業では、女性はまだ少数です[4]。女性がそうした職業を目指さなければ、賃金格差は縮まらない。例えば司法試験の受験者に占める女性の割合はずっと3割弱で推移していて、あまり増えていない。医師国家試験受験者も3割くらい。性別役割分担意識の反映だと思います。ここから意識改革をしていかないで、賃金格差という結果だけを議論しても問題の解決になりません。

[4] 内閣府令和2年度 女性の政策・方針決定参画状況調べ

https://www.gender.go.jp/research/kenkyu/sankakujokyo/2020/pdf/saishin.pdf

――アイスランドの「女性の休日」[5]のような機運が現在の日本には見られないのはなぜでしょう。 

 1985年の女子差別撤廃条約批准に向けて、市川房枝さんなどを中心に、日本でもすごく盛り上がった時期がありました。「私作る人、僕食べる人」というラーメンのCMに婦人団体が抗議し、2カ月ほどで放映中止になったことがありました。固定化した性別役割分業に非常に敏感に、きめ細かに対応していた時期はあったんですよ。  

それが、ここ10年、20年停滞している。だから、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗前会長のように不用意な発言[6]をする人が出る。最終的に、国内外の批判を受け、辞任となりましたが、最初のころの国内の反応は鈍かったですね。

[5]  1975年10月24日、アイスランドで男女間の賃金格差に抗議するストライキが決行された。”Women´s Day Off” (女の休日)として知られ、女性の90%以上がストライキに参加したという。この日を境に、アイスランドの男女平等は大きく進展し、1980年には初めての女性大統領が誕生。ジェンダーギャップ指数は2021年まで12年連続世界1位。

 

[6] 2021年2月、日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」という森元会長の発言をきっかけに日本のジェンダーギャップが世界中から注目されることになった。

   

――政策についてはいかがですか。

 女性活躍推進法という官邸主導の法律はありますが、男女雇用機会均等法、育児休業法、男女共同参画社会基本法以来、目立った法律ができていませんね。

――さきほど、女性議員の力がなければ、育児休業法の制定はなかったと伺いました。

 やはり、世の中の基本を決めるのは、国会や地方議会の立法ですから、そうした政治的意思決定の場に女性が加わることは重要です。クォータ制で女性議員の数を増やすことが必要だと思います。

女性労働者へ 

 「まだ5合目です」

――日本でジェンダーギャップを解消する道は遠いと感じますが、女性労働者へ一言お願いします。 

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 ジェンダーギャップ解消の道はまだ5合目ですよ。頂上を目指してさらに道を切り開き、後輩たちにつなげてほしいです。自分たちの歴史的、社会的使命を自覚してほしいと思います。最初にお話ししたように、女性が就職しようにも募集さえない時代から、多くの先輩方が道を切り開いて、今やっと5合目まで来た。ここから見える景色もなかなかいいわねと、前進するのをやめてもらっては困ります。

――企業に対してはどうでしょう。

 企業も、やっとここにきて、女性、外国人、障害者、とにかく力のある人の力を活用しなければ企業が存続できないと気付いてきた。女性役員も、徐々に増えています。

 沈没寸前の日本社会を浮上させるために、女性を元気づけて活用していくことを考えてほしいです。目先の利益に走るのではなく、中長期的に考えて、もっと働き甲斐がある、皆が幸せを感じることができる社会作りに貢献してもらいたい。

――労働組合に対してお願いします。

 本来の組合の機能を自覚してほしいです。職業安定法45条に基づいて、組合は職業供給事業ができます。今回のコロナ失業でもそうですけど、生活に困窮している非正規の労働者を職業訓練して、人材を必要としている企業に紹介するなどの仕組み作りが可能です。そのようにしてジェンダーギャップの解消につなぐことができるのに、動きが鈍い。残念です。

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陶芸を始めて25年。作品展にも出品している

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旭日大綬章受賞祝いのお返しに作った小皿

「桜井龍子さん ジェンダーを考える」

 をお届けしました。

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