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日本労働ペンクラブ
​  インタビュー
​  【第2回】

大塚久美子さん

大塚家具社長、クオリア・コンサルティング社長)

ジェンダーを考える

「自分に誠実に」

 と記したサイン帳を手に

(今回から、ご登場いただいた方にお好きな一言を書いていただきます)

取材日:2021年8月

​ 前回の櫻井龍子・最高裁判事のインタビューを読んだ、大塚久美子・大塚家具社長から「ジェンダーは今また議論できる雰囲気になっていますね。以前は立場上言えなかったのですが、とても関心を持ってます」とのメールが届きました。ならば、大いに語っていただきましょう! 

…というわけで、「ジェンダーを考える」第2弾は、大塚久美子さんです。

 

(聞き手・日本労働ペンクラブ幹事 保高睦美)

 人生のスタートは、大塚家具の倉庫から

――昨年末、社長を退任されて、今はどうしていらっしゃいますか?
 大塚家具の社長に就任する前から自分でコンサルタント会社をやっていて、私は今、大塚家具の外側にいますけれども、家具とインテリアビジネスで引き続き、いろいろ動いています。


――生まれた時から家具に囲まれていたんですものね。
 もともと祖父が、家具の製造をやりながら小売りも少しやっていました。埼玉県の春日部市は箪笥の街で、作りながら売るっていうのが割と普通だったんですよね。長男が製造、二男が営業というのが割と多いパターンで、父(勝久氏)は二男で、そろばんも得意で営業をやっていて。それで1969年(昭和44年)、25歳の時に独立して、私はその1年前に生まれました。家具が積んである倉庫の入り口に近い狭いスペースに住まいがあって。なので、人生のスタートは、創業期の大塚家具の倉庫の中。

 

――物心つくころから、家業を見ていた。
 朝から晩まで、トラックや人が出たり入ったりで。両親共働きで、3歳の時から保育園に入園しました。保育園から帰ってくると、社員の人たちに子守をしてもらってました。
 家業との関係で全てのものが動くんですよ。両親は家の中でもずっと仕事の話をしてましたね。母は自分の夫である父のことを家の中でも「社長」と呼んでいました。仕事の話の時は、やはり夫婦というよりは、社長と役員の関係でしたね。母が多分そういう線引きをしていたのだと思います。


 

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――将来、自分も家業に携わるだろうという予感はありましたか。 
 いいえ。私が生まれた1年5か月後に弟(勝之氏)が生まれまして、やはり昭和の40年代って言うと、跡を継ぐのは男の子って言う雰囲気でしたから。
 だから、弟は生まれた時から「後継者としてふさわしい人になりなさい」的な教育を受けているわけです。
 もっと言うと、私、5人兄弟姉妹の長女で、女男女女男の順番なんですけど、それは両親が跡取り一人だけでは心配で、男の子が二人ほしかったからなんですよ。そういうことを言われると女の子としては面白くないです。でも、そういうことが普通に言えてしまう社会の雰囲気だったんですよね。

 

 跡取りは男の子、女の子は嫁に行く


――大塚さんには、まったくプレッシャーはなかった?
 女の子は早く嫁に行けるように、いわゆる女の子らしく愛嬌があって、家の片づけとか手伝いができるのがいい子。だから、すごく風当たりが冷たかったんですよ。気が利かない子は嫁に行ったら大変なことになるって。小学生の私にとって、家事育児が常に仕事であり、義務であり、しかもそれが得意でもない、果たせない義務なんですよ。私はそれを一生やっていくのかと思ったら、目の前が真っ暗みたいな。(笑)

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 中1で結婚しない予感

――大学は、一橋大学の経済学部に進まれました。
 母は四大(4年制大学)に行くと嫁の貰い手がなくなるからって、ずいぶん心配したんですよ。(笑)


―大塚さんの時代でも?
 そう。結構こんこんと、短大だったら就職だってあるし、結婚する時だって夫の方が学歴も高く、収入も高いっていうのが当然だからって。逆は収まりが悪いっていうイメージが当時、すごく強かったわけですよ。
 でも私、正直、中学校1,2年の時には、結婚しないだろうな、という予感がしていたんですよね。世の中の仕組みが、女性が仕事も家庭も両方することには対応できてないと感じられて。女性も両方やる権利はあるけど、現実に両方できるかって言うと、スーパーマンでもない限り普通はできないから。体力の限界もあるしね。自分としてはどっちかを選ぶしかないと。
 別に結婚しないって決めたわけじゃないけど、よっぽどいい出会いじゃないと、結局自分の幸せって他人次第になっちゃうと思ったんですね。

――それを、小学校、中学校の時に感じた。
 さっきも話しましたが、母は完全に共同創業者で、会社の役員として重要な意思決定については常に父と相談して決めていました。その苦労が報われて、1980年(昭和55年)に店頭公開(後のジャスダック上場)する時、証券会社の担当者に「妻を役員にしておくのはおさまりが悪い」と言われて、母が役員から外されてしまいました。母の頑張りが、男性が普通にやるような形に収まっていなかったから評価されなかった。私が12歳の時で、それはやっぱりインパクトのある事件だったのです。

 研究者になりたかった

――それで経済学部に?
 もともと人間関係が上手ではなく内向的な性格だったので、研究者になれれば最高だと思っていました。わからないことが怖い、世の中を理解したいっていう思いが強かったんですね。経済学の理論よりは経済学説史とか経済哲学を学びたかったのです。
 他に受験した大学は考古学科だったんですよ。文字になっていない歴史が考古学。つまり物を見ながらそこから推測する、謎解きの面白さにひかれていました。

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――経済学と考古学。

 「この道に進む」という断固とした意志で物事をする人じゃないんですよね、多分。いつも、どっちつかずで、まあ、縁があった方だな、みたいな感じで。

 草創期の総合職

――就職先は、富士銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)でした。
 本当は大学院に行きたかったんですけど、経済的自立が行動の自由の保障のためには一番大事ですよね。まずは独り立ちしないと
好きなこともできないっていうのが本当の理由かな。

​          総合職でも男女の格差

――1991年(平成3年)の入行ですね。男女雇用機会均等法が施行さろとですが、同期に女性の総合職は多かったですか。

 確か、総合職約600人で、女性が13人でした。


――思ったより少ないですね。
 そうですね。それは、銀行のというよりは取引先の問題だったと思います。90年代の初めだと、例えば、取引先の中小企業の社長さん、担当が女性だったら、なめられたって感じるわけですよね。そうなると結局、銀行としても女性はフルな一名として扱えないから、大きい支店にしか配属できない。だから、女性は多く採用できなくなってしまいます。やっぱり世の中全体が変わらないと、一つの企業だけではなかなか変わっていけないんですよね。
 当時は総合職でも男女別採用は普通でした。採用活動も、男性が終わってから女性という銀行が多かったですね。


――入行後は? 
 やっぱり配置に関して上司がすごく悩んでましたよね。例えば、女性にローンの窓口の仕事、男性に法人の仕事を振ると、女性だからそういう配置にしたって思われるんじゃないか、じゃ、逆だったらいいのかって。上司が若い頃に同期に女性がいなかったから、どうしたらよいかわからなかったんですよね。

 

――当時は、労働基準法の女性保護規定 が、逆に女性の社会進出を阻んでいた面がありました。
 当時は女性は深夜業禁止で夜10時以降の残業ができないうえ、時間外規制もあって同期の男性よりもどうしても労働時間が短くなるし、当然、給与も頭打ちになります。
 仕事を覚えるためには、時間をかけて資料を読み込むことが必要で、新人はサービス残業であってもしたいわけです。男性はそれができるのに女性はできない。経験の蓄積にも差が出ます。今は女性の時間外、休日労働、深夜業の規制は解消されていますが、当時はそういう時代でした。

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――配属部署の格差は?
 人事の面接で配属部署の希望をきかれた時に、先ほど言ったように、外回りだと取引先の関係で制限が相当出ますから、内勤の専門性の高い部署がいいと答えました。今は女性も普通に外回りしてますよね。やっぱり時代はずいぶん変わったと思います。

 経営者の立場から見た社員のジェンダー

――銀行勤務後、大塚家具の取締役として、社員の採用や教育、評価制度にも携わられました。経営者の目から見て女性社員のキャリア形成に関するジェンダーをどのように感じましたか?
 女性は昇進のチャンスが得にくいのが問題だと思いました。男性のカルチャーの中でできているビジネス慣行に入っていける人でないと頑張っていることが上司に注目されず、昇進を推薦する対象になりにくいんです。
 意識的に差別しているというわけではなく、無意識的に注目する人が大体男性になってしまうからです。


――男性中心のビジネス慣行というと、仕事後の飲み会などに、女性は参加しにくいですよね。
 そう。ビジネスで重要な情報って、そういうフォーマルではない場でやり取りされるっていう実態があるんです。それが得られないっていうのは、実は組織の中ですごく不利になるんです。 

 

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 倒れるまで飲むなんて、ついていけないじゃないですか。90年代から2000年代はそれをやってきた人たちが上に登っていって男性カルチャーを再生産している。なので、なかなか女性がリーダー的な立場に登っていけない状況でした。

​ だけど、徐々にビジネス界のカルチャーも変わってきましたね。今の若い人だと多分、飲み会ではなくてSNSなどのコミュニケーションツールになっているのでしょう。徐々に女性も参加しやすいカルチャーになってきている。

​(右は保高睦美)

 私が就職した時は、結婚しても辞めないですむ会社を探すのが大変だったけど、10年くらい後輩の人たちは勤め続けるのが普通になっていましたから、どんどん時代は変わっています。

――今後、どういうしたら女性も男性も会社の中で平等に活躍できるようになると思いますか。
 仕組みとしては、すでにそれができる世界になってきていると思います。

 今は、オフィスに集まらなくてもできる仕事がすごく増えています。

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 仕事のツールとしてもzoomなどがでてきて、同じ空間、同じ時間に人が集まらなくてはならない仕事のスタイルが減ってきて、融通のきく仕事ができるようになりました。
 家事に割かれる時間も減っています。
 だから、女性も十分参加できます。
 ただ、過去、キャリアを積めなかった女性もいるわけです。だから、完全にキャッチアップしていくためには時間は多少かかるかもしれないけれど、女性が活躍できる素地は整ってきています。

 大塚家具に入社

――銀行では、融資業務、海外広報などの業務を経験し、1994年(平成5年)に大塚家具に経営企画室長兼 営業管理部長として入社されました。
 銀行を離れるときは、資金をためて留学するときだと思っていたので、最初は全然、入社する気はなかったのですが、ちょうど規制緩和で全国展開しようというタイミングということもあり引き受けました。

 

 会員制のスキームを整える

――大塚家具での仕事は?
 当時の大塚家具は個人商店の延長線上みたいな会社で、創業者である父がやりやすいように組織されていて、あまりにもカスタムメード。それを全国展開に耐えられるようにマニュアル化し、さらには後継者に引き継げるように整備することが必要でした。

 第一に手を付けたのは、会員制という新しいビジネスモデルを定着させることでした。その他、新人教育プログラムやクレーム対応など、仕組みを作っては引渡し、仕組みを作っては引渡しで、10年間様々な部門を担当しました。

 老けて見せることに腐心

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――対外的な関係で、ジェンダーを感じたことはありますか?
 ジェンダーの問題って、慣れの問題でもあると思うんです。

 当時は20歳代だったので若いこともあり、やりづらかったことは結構ありましたね。取引先と商談していても、相手が「自分たちが重視されていないんじゃないか」って感じているのがわかるの。若い女性役員に慣れていなかったからだと思います。
 髪をアップにしたり、地味な服装をして、まだ20歳代だったのに「もう30歳ですから」なんて、歳をサバ読んだりもしましたね。

 

 日本の伝統?~トラブル処理は女性の仕事

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――会社のなかではどうですか? 
 会社の中で、トラブル処理と危機管理は私の仕事だったんですね。そういう面倒なことは「女の仕事」っていう意識だったと思います。
 家庭の中でも、厄介ごとって「女の仕事」と思われてますよね。会社内でもクレームとか、役所対応とか、そういう前向きじゃない仕事は「女の仕事」、つまり私の仕事でした。黙ってやるのが当たり前って感じで。

――管理部門は女性、積極的に攻めていく営業部門は男性という役割分担は日本の会社一般にあることでしょうか。
 日本の文化全体がそういう役割分担に慣れていますよね。
 日本には「家業」ってありますよね。明治以前は、財産は「家」に属していて当主での私物ではなく、当主はいわば管理者。家業を次世代に引き継いでいくため、対外的に家業を担って稼ぐのが当主である夫、妻は家の中の家計を預かって家族や使用人の管理をするという役割分担ができていた。それが今でも、性別役割分担意識として残っているように思います。
 その影響で、会社経営でも何となく女の仕事、男の仕事っていうのが区別されてしまって、女性が対外的に主張をし、攻撃的に振舞うことは、嫌悪される傾向があります。

 

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 ビジネス環境の変化

――経営者として、時には攻撃的に主張しなければならない場面はあると思います。
 男性だったら攻撃的態度が尊敬や敬意の対象になっても、女性の場合はストレートな物言いで敬意を持たれるということは少ない。同じことをしても評価が全然違います。「これは嫌われるな」と思いながらやらなくてはならない場面もありました。

――会員制の整備に尽力されたわけですが、やがて会員制のビジネスモデルを取り巻く環境が変化してきた。
 そうです。実は1990年代末には、すでに会員制の意義がなくなってきたんです。
 会員制は旧来の流通構造に対するアンチテーゼだったのですが、問屋を通さず、メーカーから直に取引する店が激増して、価格もオープン価格が普通になってきたので、会員制は差別化要素ではなくなっていました。
 それから、バブル崩壊の後の不動産市況の落ち込みがひと段落して、オフィスビルが安く借りられる状況ではなくなっていて、会員制だからオフィスビルに店が出せるというメリットも少なくなったのです。

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 更に大きかったのは、個人情報に対する意識の高まりですね。入店のために個人情報を開示することの抵抗感が強くなってきていました。
 事実、2002年(平成14年)をピークに来店件数が減り始めました。だからビジネスモデルを転換する必要があったのですが、組織の心理としては、今までのやり方を変えことにすっごく抵抗があるんですよね。
 大塚家具で10年。激務、長時間労働が続いて疲れていたということもあり、2004年(平成16年)、大塚家具を辞めることにしました。

 大塚家具を退社後、自身の会社を設立して広報・IRコンサルティング活動を行うほか、筑波大学法科大学院で学び、経営者の立場に立って会社を守る仕事をめざしました。

 

――しかし、4年後、再び大塚家具に戻ることになるんですね。

 社長就任

――2004年に取締役を退任し、2009年3月に社長として会社に呼び戻されました。
 2007年に、金融庁から、配当引き上げのタイミングでの自社株買いがインサイダー取引にあたるとして課徴金の納付を命じられました。株主に良かれと思ってやったことが、そのようなことになってしまい、父も気落ちして、それで私を社長にということになったんです。


――改革のチャンスでもある。
 そう。私としては、前に辞めた時には抵抗を受けてできなかった改革ができるとも思ったわけですよ。で、「本当に任せてくれるのね」と念を押して、家族会議までやって社長復帰を決めたんです。

 

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――社長就任時の会社はどのような状況でしたか?
 2008年9月にリーマンショックがあり、社長に就任した2009年にはもう赤字でした。


――低価格を売りにする競合他社が台頭してきた時期でもあった。
 そうです。大塚家具とはターゲットが全然違うけれども、中間層はどっちかに流れるわけですよね。そして、まずは個人情報を取られない競合他社に行こうとなる。

 それから、スマホの普及。店舗を訪れる前に、すき間時間にスマホで情報収集するのが当たり前になって、いかにスマホでのプレゼンスを上げるかが勝負になっていたのに、そこが弱くて、その点でも集客力が落ちていました。
 だから会員制の改革とIT化、やらなきゃいけないことはすごく明確だったんですね。でも難航するだろうと思っていました。

 女性取締役の登用

――取締役会に積極的に女性を登用されたようですね。
 意識して取締役会の3割以上を女性にしました。
 やっぱり男性ばかりだと
度の塊になっちゃうんです。もちろん女性ばかりでも同じですが、同質の組織だと口に出すまでもないっていうことが多くなってしまいます。活発な議論のない取締役会は会社にとって良くないですよね。

――女性の登用に対する反発は?
 社外から執行役員として女性を何人か登用したのですが、社外からということと、女性だということに対する社内の反発は大きかったですね。


――女性を役員に登用しようとすると、社外の人に頼らざるをえないのでしょうか。
 先ほどもお話したように、日本社会の状況として、女性が会社で管理職になりづらい状況があったため、社内に適任者が少ないということがありますね。 
 私の同期の女性で、今でも同じ銀行で働いている人は少数です。男性と違って女性の場合、同一組織の中で長期間継続してキャリアを積むことが難しい実態が、その背景にあると思います。

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女性のキャリア中断は社会の損失

――女性の大学進学率は高いですが、子育てなどのために、家庭に入ってキャリアを中断する人も多いですね。
 もちろん個人の選択としてはありだと思いますが、社会が女性に高いコストをかけて教育を提供したのに、それを社会が十分活用できていないとすれば、社会としては損失です。


――社会がコストを払ったにもかかわらず、社会がそのコストを返してもらうことを拒否している状況があるともいえますね。
 戦後の高度成長期の日本のワークスタイルは、戦争中のそれですよね。男性が兵士として24時間365日戦っている間、銃後の守りは女性がするという、夫婦二人一組で役割分担しなければ働けないような社会の仕組み。外で長時間労働する人とそれを支える人がいる。そのマインドが今日まで続いてきたんです。
 でも先ほどお話ししたように、女性が活躍できる素地は整いつつあります。それを促進するように、政治、ビジネス、メディアでももっと発言する人が多くなってほしいと思います。

 社長解任

――2009年の社長就任時から大塚家具で、ビジネスモデルの改革に取り組んできましたが、2014年7月の社長解任という事態が起きました。やはり、改革に対する反発が原因ですか?
 それは遠因。
 直接的には、父が、生まれ故郷の春日部に大規模物流センターを作る数十億円の投資案件を持ってきたことに始まります。
 リーマンショック後、赤字が続き、2011
年12月期にようやく黒字になりましたが、少し売り上げが落ちると、赤字がものすごく大きくなる財務構造だったし、2014年4月には消費税増税があったから、物流センターの新設の前に生き残りのためにお金をかけてやらなければいけないことがあったのです。
50年近く苦労してきて、好きなように老後を送れなくて何のために成功したんだかわからないっていう父の気持ちもわかる。でも、やめてほしかった。
 そうしたら社長解任が提案されて、取締役会で通ったっていうことです。父が会長と社長を兼任し、私は取締役として残ることになりました。

メディアとジェンダー

――社長解任後、半年で社長に復帰しました。
 年明け1月28日の取締役会で、私を社長に戻し、父と私の代表取締役二人体制に戻すことになりました。そうしたら、翌29日に父から私を取締役候補から外す株主提案が出たのです。

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――3月の株主総会に向け、会社側(久美子社長)と株主側(勝之会長)のプロキシーファイト(委任状争奪戦)となり、連日のようにメディアに取り上げられるようになりました。2015年2月25日に、勝久氏が一部の幹部社員をずらりと並べた記者会見もインパクトがありました。「社長にえらんだことが私の唯一の失敗」「何人かの悪い子どもを作った」などの言葉も飛び出し、娘である久美子社長が創業者である父勝久氏を会社から追い出そうとした父娘の大喧嘩という構図でみられるようになりました。

プロキシーファイト

 その構図は事実と全く異なります。あれは相手方のコンサルティング会社、PR会社のストーリー作りがすごく周到に計画されていて巧妙だった。
 あの会見の翌日の26日はもともと会社側の事業説明の記者会見が予定されていて、それにぶつける形でセットされたんですね。
 株主側は、会社側の戦略が低価格志向に転換したり、会員制をやめることでサービスをなくすものだと主張しましたが、それは事実と異なるものです。でも、それが父の発言とともに、そのまま記事になってしまった。
 その後、どんなに説明しても、わかってもらえませんでしたね。

つくづく思う。私が40歳男性だったとしたら

――「親子喧嘩」「お家騒動」「家具屋姫」などと、人々の興味を引くような取り上げられ方をしました。
 私が40歳の男性だったら、きちんとした経済ニュースとして取り上げられたのではないかとつくづく思います。
 テレビのインタビューでは、事前には経済ニュースとして取り上げると言いながら、実のところは親子関係などの質問で、タジタジになったり、感情的になるところをアップでとりたいという意図が透けて見えました。それで視聴率が稼げるっていうところが問題だと思います。

 株主総会までの間の2か月間の露出をCM換算すると60億円って言われましたね。その後のお詫びセールでまで入れると100億円だそうです。
 それだけの期間、大塚家具は低価格路線になる、サービスがなくなるとか、事実と異なる宣伝をされ続けたことはビジネス的には大きな痛手になりました。

(その後、大塚家具は、ヤマダホールディングス(HD)の傘下に入り、大塚さんは2020年12月、社長を退任した)

叩かれてもチャレンジする

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――何か問題が生じた時、それが増幅されて世の中に宣伝されてしまうと、女性が社長になることに対する、恐れ、不安感が出てくる可能性もあるように思います。
 なので、私としてはやっぱり、何があっても恐れるに足らずと、気にしちゃいけない、みんな頑張れと言いたいわけですよ。
 正直、トラウマになるし、意気消沈もします。でもまあ、それで人生終わるわけじゃないから。そうやって頑張る人がいないと、何十年たっても、変わらない可能性があるわけですよね。
 多分、世の中では、私を失敗者だと見る人が多いと思います。社長になって花道作って退社するというのがステレオタイプの人生の成功ととらえれば、そうなのかもしれない。でも人生って、そればかりでもないと思うんですね。
 後に続く人にどのような貢献ができたかに価値があると思ってます。 

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「私の人生、七転八倒。結構ヘタレて、日和っちゃうことも多いんですけど・・・いつも自分に嘘をつかず誠実にと思っています」と揮毫

 女性だということで、ニュートラルな評価を得られないことはあるかもしれませんが、誠実に仕事をすれば、その時に他人から評価されなくても後につながる貢献にはなります。そのことを他人は知らなくても自分は知っているということが大事です。他人の表面的な評価ではなく、自分が意味があると信じることにチャレンジしてほしいです。

​ チャレンジした人を叩く世の中だけど、叩かれるからやめよう、ではなくて、叩かれても気にしないで頑張ろうって、言いたい。だから、まず、私が元気にしなきゃって思っています。

​(大塚久美子さん「ジェンダーを考える」をお届けしました)

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